菊水流剣詩舞道,岡山県,ロゴ

菊水流の歴史History

家元 藤上南山

昭和37年に菊水流剣詩舞道を創流した、吟剣詩舞界の「レジェンド」。その活動は岡山県内にとどまらず、東京、三重、兵庫(姫路)、鳥取と各地に支部を広げ、300名を超える会員と共に歩んできました。

家元の真骨頂は、舞のみならず、作詞・作曲、振り付け、さらには舞台道具の手作りまで手掛ける「総合芸術家」としての姿にあります。郷土・岡山を愛し、100カ所以上の名所を巡って自ら漢詩・イラストを記した『ふるさと岡山漢詩紀行』をはじめ、数多くの著作を残しました。40年間継続したリサイタルは、現在は「菊水流発表会 扇と刀 舞の華」として受け継がれています。

(公財)日本吟剣詩舞振興会の全国剣詩舞コンクール決勝審査員や理事評議員を長年務め、岡山県吟剣詩舞道総連盟の発足より携わり、理事長・会長を歴任。平成20年には「吟剣詩舞大賞功労賞」を受賞。

令和7年2月、91歳でその情熱的な生涯を閉じましたが、その「舞の心」は今も菊水流会員の中に息づいています。

藤上南山,家元

宗家 藤上翔山

平成19年、2代目宗家を継承。物心つく前より父・南山から剣詩舞を習い、「藤上南山作舞リサイタル」や全国剣詩舞コンクールで研鑽を積み、まさに次代の旗手として嘱望され、その職を継ぎました。

現在は(公財)日本吟剣詩舞振興会の全国剣詩舞コンクール決勝審査員や理事評議員を務めるほか、岡山県吟剣詩舞道総連盟理事長、中国地区連絡協議会幹事長といった重責を担い、日本の吟剣詩舞道の振興に心血を注いでいます。

先代から受け継いだ伝統を守りながら、現代に響く舞の姿を追求し続けています。

藤上翔山,宗家

「家元と剣詩舞」

菊水流の創始者・藤上南山が剣舞の世界に足を踏み入れたのは、昭和12年、わずか4歳の時でした。父に手ほどきを受けたといわれるその頃の記憶は、本人の中にも殆ど残っていません。しかし、手元に残された古びた一葉の写真は、幼き日の家元が確かに父と共に舞っていたことを静かに証明しています。

昭和19年に父を亡くした家元は、学業を終えた17歳の頃、父の遺志を継ぐべく地元岡山で剣詩舞の師を見つけ、再び稽古に励みます。

昭和28年からは詩吟の修行も開始。後に「関心流」へとつながる真子流にて、持ち前の探究心でいち早く指導者としての地位を築き、最高位である範師にまで昇格しました。

しかし、剣詩舞への情熱は一貫して変わることはありませんでした。昭和50年、さらなる高みを目指すため、長年歩んだ関心流日本興道吟詩会を退会。その全てのエネルギーを剣詩舞へと注ぎ込む決断をします。この揺るぎない情熱こそが、現在の菊水流の確固たる礎となりました。

幼少の家元(右)と父の思い出

菊水流の誕生

菊水流の歴史は、昭和34年(1959年)8月、岡山市北区富田町の家元の自宅から始まりました。家元・藤上南山は、父や師からの教えを胸に、わずか数名の門下生とともに剣詩舞の指導を開始したのです。これが、今日の菊水流の「真の原点」となりました。

翌昭和35年には指導会場が4カ所に増えるなど、その志は着実に実を結び始めます。

昭和37年(1962年)5月、大きな転機が訪れます。それまでの自宅での「畳の教場」から、より公的な板張りの会場である「南方公民館(南方教場)」へと拠点を移しました。

この移転と同時に、流派の名称を「岡山県菊水流尚舞館本部」と命名。藤上南山が初代頭首・総範師として正式に立ち上がったこの時、指導教場は5カ所、会員数は20名余りという、誇り高き出発でした。

流派名はその後、昭和39年「菊水流剣扇舞岡山県本部」と改名、更に昭和42年「菊水流剣詩舞道岡山県本部」、昭和47年「菊水流剣詩舞道本部」と改名され今日を迎えています。

家元青年時代(護国神社奉納舞)

「発表会への取り組み」

昭和34年の指導開始から数年、教場が広がりを見せる中で、家元の右腕として黎明期を支えたのが、今は亡き角田柳山先生(1975年没)でした。家元と二人三脚で築いた礎は、創流から15年を経た昭和48年(1973年)、会員数100余名、12支部という大きな組織へと結実しました。

家元の真骨頂は、その「何事にも前向きに挑戦する」性格にあります。それを象徴するのが、欠かすことなく今日まで続く発表会の歴史です。


第一回(昭和38年)
岡山市深抵小学校講堂にて開催。会員わずか40名での、菊水流としての産声でした。

飛躍の舞台(第2・3回)
当時、市内随一の超一流会場として羨望の的であった「天満屋葦川会館」で開催。

市民とともに(第4回・昭和41年)
新築されたばかりの「岡山市民会館」をいちはやく利用。会員数はまだ40〜50名の時代でしたが、身内だけの会にとどまらず、広く市民に開かれた「公演」としての姿勢を鮮明に打ち出しました。


この「常に最高の舞台を目指す」精神が、現在の「菊水流発表会 扇と刀 舞の華」という華やかな伝統へと繋がっています。

第2回菊水流発表会(天満屋葦川会館・昭和39年10月25日)

藤上南山作舞リサイタル

菊水流の真髄は、常に「新しき」を求める挑戦の軌跡にあります。

昭和45年、会員数80名という規模ながら、他流派に先駆けて全編書き下ろしの『平家物語』を公演。この異例の試みが、昭和49年(1974年)から始まる「藤上南山 作舞リサイタル」へと繋がりました。


家元が掲げたモットーは、「常に自分の力量より、わずか難しいものへ挑戦する」こと。
休むことなく新作を発表し続け、倉敷市民会館での第一回公演『藤戸』から始まったこのリサイタルは、現在の「菊水流発表会 扇と刀 舞の華」へ繋がり、多くの観客の皆様に感動を与え続けています。


菊水流ならではの「三つの表現」

私たちは、漢詩を素材とした剣舞・詩舞の基本を何よりも大切にしながら、観る人の心に届くための独自の工夫を重ねています。


  1. 古典と現代の架け橋
    本来の漢詩に加え、日本人に馴染み深い七五調の詩歌を積極的に採用。邦楽のみならず洋楽や現代音楽のアレンジを取り入れることで、今の時代に響く美しい作品を創り出しています。
  2. 郷土の歴史を舞う「詩舞劇」
    「地域文化の掘り起こし」をライフワークとし、地元の歴史や人情味あふれる民話、時にはコミカルな昔話までを、詩舞劇風に仕立てて上演。地域の皆様から「わかりやすく、温かい」と厚いご支援をいただいています。
  3. 「舞の心」を伝える演出
    難解と思われがちな剣詩舞の世界。しかし、ドラマチックな構成や多彩な音曲を用いることで、振り付け一つひとつの意味が鮮明になり、初めて観る方でもその世界観に深く没入していただける演出を追求しています。

郷土作品「こんこん狐と曼珠沙華」

郷土作品「高松城」ラストシーン
藤上南山 昭和55年作詩・作曲

「菊水流コンクール」

菊水流では、昭和42年(1967年)より毎年欠かすことなく「菊水流コンクール」を開催しています。

この行事は、単に技術の優劣や順位を競うためだけのものではありません。多くの会員がこの日に向けて意欲的に研鑽を積み、舞台に立ち続けるのは、コンクールの精神が「他者との比較」ではなく、「自らへの挑戦」にあることを、全員が深く理解しているからです。


舞台に立ち、一人で舞うという経験は、何にも代えがたい成長の機会となります。


技量の向上
目標を持つことで、日々の稽古に深みが生まれます。

幹部の育成
この研鑽の場を通じて、流派の未来を担う多くの指導者が育っています。

一体感の醸成
全員が同じ目標に向かって切磋琢磨することで、支部を越えた強い絆が生まれます。


初心者からベテランまで、それぞれのレベルで「今の自分」を表現する。この開かれた精神こそが、菊水流が長年愛され続け、活気にあふれている最大の理由です。

菊水流コンクール表彰式

藤上翔山 二代目宗家継承

昭和37年の旗揚げから45年。平成19年(2007年)10月、倉敷市民会館で開催された「菊水流剣詩舞道45周年記念全国大会」にて、歴史的な瞬間が訪れました。


全国から集まった吟剣詩舞家、そして会場を埋め尽くした市民の皆様が見守る中、藤上翔山が二代目宗家を継承。家元・南山と宗家・翔山の「二人三脚」による、新生・菊水流が力強く産声を上げたのです。


45年という歳月は、流派に熟練の技をもたらすと同時に、指導者の高齢化という課題も突きつけました。しかし、宗家はこの現実に正面から向き合いました。


「伝統を絶やさないためには、青少年の育成こそが急務である」


その強い信念のもと、若い世代への指導に心血を注いできました。そして創流60周年を迎えた令和4年、その種は芽吹き、今、菊水流には瑞々しい感性を持った若い指導者たちが次々と育っています。伝統は今、新しい風を取り込みながら、さらなる高みへと向かっています。

菊水流45周年記念大会「二代目宗家継承」